旧山崎家別邸 (73 画像)
旧山崎家別邸は、重要伝統的建造物群保存地区に隣接する川越市松江町2-7-8にある。我が国最初の住宅建築家の一人とされる保岡勝也の設計により、1924(大正13)年に上棟し、翌14年に完成した。母屋、茶室、車待ちの3棟の建物は、2000(平成12)年に川越市指定文化財となっている。また、庭園については、2011(平成23)年に「旧山崎氏別邸庭園」として、国の登録記念物として登録されている。旧山崎家別邸は建物だけでなく、庭も保岡勝也の設計によるもので、建物は大きな改造もなく維持管理されてきた。建設当初の設計図や工事代金の領収書、竣工写真などの資料が多数残されていることも価値を高める要因となっている。大正時代は、あらゆる分野において旧来の生活を見直す気運がみなぎっていた時代であった。そのような中、旧山崎家別邸は、庭から家具、カーテンに至るまで保岡勝也一人で設計した住宅で、全国的にも貴重な例といえる。
旧山崎家別邸の敷地面積は、約2300㎡、母屋の南側には座観式の庭が広がり、庭の東側には茶室があった。母屋は、木造モルタル仕上げの洋館が和室棟と溶け合ったデザインとなっている。洋館西側の階段踊り場には、旧山崎家別邸で最も象徴的な装飾である泰山気とブルージェという鳥をデザインしたステンドグラスが入る上下窓がある。
旧山崎家別邸の庭園は、保岡勝也の設計に基づいて造営された、枯山水及び茶庭からなる庭園である。建築とともに、保岡勝也が設計した茶庭を含む和風庭園の事例として意義深いことから、平成23年2月7日に「旧山崎氏別邸庭園」として国登録記念物名勝地となった。
庭園には、母屋西側の洋風部分にあるベランダ、テラスの遠景に築山がある。和室の客間からの近景に高桐院型の手水鉢と燈籠を据え、茶室に向かう飛石と切石を交えた畳石がある。南東側の遠景に茶室を配置している。この庭の構成は我前庵(尾形光琳遺愛の茶室)が仁和寺に移築される前の阿似邸にあった時の配置図と非常に近似しているが、この点について安岡が意図したかは不明である。庭は、それぞれの部屋からの見せ方として、座観式の構成になっており、回遊や実用を主眼とした庭ではない。植栽は、庭園を囲むように隣地境界沿いにスダジイを千鳥植えにしている。手水鉢周辺はモッコクを主木にして、花木を中心としたツバキ、ウメ、サルスベリ等、四季の移ろいを感じさせるように配植されている。
一方、敷地の東には児童室から直接下りられる場所に温室や花壇を配置し、子どもの遊び場として設計されていた。旧山崎家別邸の庭園は観賞用の庭と実用の庭を融合させた大正時代の住宅庭園の特徴を表現したものになっている。

●山崎家の歴史
山崎家の初代である嘉七は、信州東中野在下笠原村天領の山崎家3男として、1756(宝暦6)年に生まれ、1772(安永元)年に川越に出てきた。亀屋清右衛門の所で修業して暖簾わけを許され、1783(天明3)年、現在地にお菓子屋「亀屋」を開業したと伝えられている。創業以来、扱うお菓子は上物に徹していたといわれ、3代目嘉七の頃には川越藩御用達になったようである。
3代目の長男である文治郎は、1862(文久2)年に4代目嘉七として家督を継ぎ、亀屋の商品の改良に努めて商業を繁栄させた。1878(明治11)年には第八十五国立銀行の創立に加わり、取締役兼支配人となった。しかし、1883(明治16)年に突然家業を引退し、若干15歳の長男半三郎に家督を譲った。4代目はその後も第八十五国立銀行の頭取や川越商工会議所の初代会頭などを務めたり、川越貯蓄銀行の創立にかかわったりするなど活躍し、墓碑には「中興の祖」と記されている。
5代目嘉七は、川越を代表する多くの建物の普請に関わっており、大正初期の川越貯蓄銀行と1918(大正7)年の第八十五銀行本店は、旧山崎家別邸を設計した保岡勝也の設計によるものである。6代目は、1927(昭和2)年に家督を継ぎ、商標を登録して近代的な商いへの改善に取り組んだ堅実家であった。また、埼玉県菓子工業組合連合会理事長、埼玉銀行頭取、川越市議会議長などの役職を歴任している。7代目は1917(大正6)年生まれで、1985(昭和60)年に他界し、現在の当主で8代目となる。
山崎家には1917(大正6)年から1941(昭和16)年までの間に皇族が何度か宿泊しており、1925(大正14)年以降は、陸軍大演習の際などに旧山崎家別邸に宿泊された記録が残されている。特に元大韓帝国皇帝の息子である李王垠(りおうぎん)殿下に2度訪問し、自ら松を植樹しており庭園内にはそれを記念する石柱が残されている。

●保岡勝也
文明開化の明治時代が訪れ、木材や石材のみが建築材料だった時代はすでに終わりを告げていた。工部大学校(現・東京大学工学部)で教鞭をとったジョサイア・コンドルと、その弟子辰野金吾や曽根達蔵らにより、西洋建築様式が本格的に導入された。
1894(明治27)年以降、三菱の第一号館をはじめとする煉瓦の洋風建築群が、陸軍練兵所跡地であった丸の内に建設された。これらがコンドルや曽根達蔵らの設計であることはよく知られている。しかし、その半分以上を設計したのは保岡勝也(1877~1942)であった。
保岡勝也は1877(明治10)年東京で生まれた。東京帝国大学で辰野金吾のもとで建築を学び、卒業設計として銀行の設計をした。そして、1900(明治33)年三菱合資会社(以下三菱)へ入社し、第四号館から設計に加わった。1902(明治35)年大学院へ入学のため一度は三菱を離れたが、明治38年再入社。明治39年には技師長として三菱合資会社丸ノ内建築所の中心を担った。日本最初の鉄筋コンクリートを導入した第十四号館を手がけたのも保岡であった。
建築家の仕事は単なる建築物の設計にとどまらない。保岡は建築に附随する暖房や照明の器具についても使いやすさを考えて選んでおり、使う人の立場に立つ姿勢は早くも三菱時代から伺える。
1913(大正2)年、三菱合資会社(現・三菱地所)を退社して設計事務所を開業した保岡は、それまでの経緯や人脈を活かし、地方銀行を手始めとする商業建築に携わる。その活躍ぶりを聞きつけた当寺第八十五銀行の副頭取であった山崎嘉七は、彼に設計を依頼し、1918(大正7)年3月、本店が川越の地に完成した。これが川越一番街のランドマークとなっている旧第八十五銀行本店(現・埼玉りそな銀行川越支店)である。
保岡の設計で初めて川越に建設されたのは、これより少し前の1915(大正4)年の川越貯蓄銀行本店であった。1896(明治29)年創業の川越貯蓄銀行は、店舗を第八十五国立銀行内に置いていた。そのため、川越貯蓄銀行本店は1915(大正4)年に、第八十五銀行の東側に建物を新築して独立した。この本店は再び保岡の設計で、1933(昭和8)年に新築された。
1936(昭和11)年には山吉デパートが完成した。エレベーターも備えた3階建ての洋風建築が、第八十五銀行の通りを挟んだ斜向かいに建てられ、川越一番街には保岡の手がけた洋風建築と、それまでの蔵造りの軒が並ぶという、和と洋が調和した通りとなった。
三菱時代に西洋建築の最先端を歩んでいた保岡勝也は、1913(大正2)年の独立後、商業建築だけでなく、住宅作家・中小住宅の設計者として転身を図る。
当時の建築家の仕事として、中小住宅を扱うことは、まだ開拓されていない領域であった。保岡は、部屋の間取りや設備について、主婦や子供の目線に立って実用を重視し、依頼者からの要求に応えた。また、彼は単なる建築の設計者にとどまらず、装飾品や家具類などへの造詣が深く、その選定にも自ら携わったことが著作からうかがえる。住環境までも含め、建築家の仕事であるとする考え方を示したという意味でも、保岡はまさに住宅作家のパイオニアと呼ぶにふさわしい存在であった。
時代が明治から大正へと変わり、和から洋への大転換のさなか、むしろ彼の作風は次第に洋から和へと向かっていく。それはあたかも時代に逆行するかのようであった。その傾斜は更に加速し、晩年は茶室建築の研究家として講義を行うなど、日本古来の伝統建築に没頭していった。

・埼玉県川越市松江町2-7-8
公式ホームページ

クリックして画像を拡大





トップページへ inserted by FC2 system