島崎藤村「川船」文学碑 (5 画像)
文豪島崎藤村は1899(明治32)年4月、28歳のとき、旧師木村熊二の招きで小諸義塾の教師として北佐久郡小諸町(現小諸市)へ赴き明治38年まで住んだ。そしてこの間に詩から小説に転じた。先ず散文修行のために「千曲川のスケッチ・原ノート」を作り、 ついで八編の「千曲川河畔の物語」を書き、その上に立って、日本自然主義の記念塔的「破戒」の稿を起こしたのである。
藤村は明治34年~36年のある秋と、明治37年1月13日にここ蟹沢船場から川船で千曲川を下って飯山を訪ねた。このときの見聞が「椰子の葉陰」を生み「破戒」の中の描写に反映された。そしてのちに「千曲川のスケッチ」に収められた「千曲川に沿うて」「川船」など六編には明治の奥信濃の情景が生き生きと写されている。ここに刻んだ碑文は、「千曲川のスケッチ」(その十)の中の「川船」の一節である。

千曲川のスケッチ「川船」
私達は飯山行の便船が出るのを待つて居た。男は眞綿帽子を冠り、藁靴を穿き、女は紺色染の眞綿を龜の甲のやうに背中に負つて家の内でも手拭を冠る。それが斯の邊で眼につく風俗だ。休茶屋を出て川の岸近く立つて眺めると上高井の山脈、菅平(すがだひら)の高原、高社山、其の他の山々は遠く隠れ、對岸の蘆荻(ろてき)も枯れ潜み、洲の形した河心(かしん)の砂の盛上がつたのも雪に埋もれて居た。奥深く、果てもなく白々と續いた方から、暗い千曲川の水が油のやうに流れて來る。
そのうちに乗客が集つて來た。 私達は雪が積つた崖に添ふて乗場の方へ降りた。屋根の低い川船で、人々はいづれも膝を突合せて乗つた。水に響く櫓の音、屋根の上を歩きながらの船頭の話聲、そんなものがノンキな感じを與へる。船の窓から眺めて居ると雪とも霙(みぞれ)ともつかないのが水の上に落ちる。光線は波に銀色の反射を與へた。
斯うして蟹澤を離れて行つた。
藤村

・長野県長野市豊野町蟹沢

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