春蘭亭 (23 画像)
鈴木家は紀伊の国(今の和歌山県)熊野の鈴木氏から分かれた一族であり、鈴木将監重信の代に、登米伊達初代藩主相模宗直が、水沢城より登米に移るに伴い慶長9年に移住し班列一族、知行高6211文を賜わり外道川原に戦功をたてた。
この春蘭亭は、登米町で唯一公開している武家屋敷であるが、それだけではなく、豊臣秀吉・徳川家康・南部信直・伊達政宗がからむ大事件の証とされているものである。 1590年、豊臣秀吉が全国制覇をなし、この陸奥国では奥州仕置(秀吉による新裁定)の後、新しい領主・領土に替わったところがでてきた。その結果、北上市(和賀川)以北の南部氏と以南の伊達氏が隣り合わせになるが、その境部分の旧和賀領(奥州仕置では南部領)をめぐって攻防があった。伊達藩入りを望む和賀氏とそれを擁護する伊達政宗、それに秀吉の裁定どおりとする南部氏が三つ巴になる。
登米伊達氏は、かつて水沢に住み伊達領の北の守りの任を与えられていたので和賀氏が一揆(和賀の乱)を起こして岩崎城(北上市)に立て籠もったとき、政宗の命により軍勢を引きつれ応援に駆けつける。その時の援軍を指揮していた武将が、この屋敷の主・鈴木将監重信であった。
この援軍は、南部氏に事前に知られてしまい夏油川原で壮絶な戦いとなり、鈴木将監は奮戦及ばず戦死を遂げる。
事件はそれだけでは終わらず、政宗が家康の糾問を受け責任を問わされる。政宗は宗直(登米初代当主)の私闘による事件として難を逃れるが、このことで45万石の加増がふいになったといわれる(幻の100万石)。責任を一身に背負った宗直がその罰として荒れ果てた登米に移封される。鈴木将監の子孫も住居ともども登米に移り住むが、その屋敷がこの春蘭亭である。
鈴木将監は「武士道の精神を全うし、日本の道徳のよりどころ」であると、北上市相去地区の人々に愛され霊を弔われている。相去の将監首塚(葛西壇)、和賀にある将監の墓、伊達勢終結の泉徳寺は地元の人々によりいつもきれいに守れており、100年・300年・400年祭(中澤町長出席)が地元の有志により盛大に執り行われている。
元禄時代頃、鈴木家の屋敷は後小路東角地に見出せるが、天保10年以後に現屋敷に移ったものであり、登米の武家屋敷の一般形式とは異なり「直ご家形式」になっているのが特徴である。

・宮城県登米市登米町寺池桜小路79
公式ホームページ

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