旧広瀬家住宅 (142 画像)
新居浜市は、1691(元禄4)年に開坑した別子銅山が育んだ町であり、明治以降の銅山の近代化によって急速な発展を遂げた。1973(昭和48)年鉱山は閉山したが、別子の山々には100年前の植林により緑がもどり、新居浜には鉱山から派生した産業によって工場が林立し、瀬戸内海工業地帯の一翼を担っている。この旧別子から新居浜、さらに瀬戸内海上の四阪島にかけての地域には多くの別子銅山関連の産業遺産が残り、わが国の産業革命が果たした役割を雄弁に物語っている。これらの近代化産業遺産は、住友家初代総理人・広瀬宰平によって創生されたものである。
広瀬宰平の旧宅は1887(明治20)年、大阪の大工棟梁八木甚兵衛の指揮により、北約4kmの旧金子村久保田にあった広瀬邸を現在地に移転、改築した。
母屋、乾蔵、米蔵などはこの時移築されたもの。加えて明治22年に新座敷と庭園が、八木と植木屋清兵衛の手によって竣工し、一応の完成をみた。その後、大正・昭和初期にかけて、南庭や中之町池(亀池)周辺の整備が行われ、今日見る姿となった。
1968(昭和43)年3月、広瀬公園として愛媛県の指定名勝となり、2003(平成15)年5月、「別子銅山を支えた実業家の先駆的な近代和風住宅」として、母屋・新座敷を中心とした明治期の建物が、国の重要文化財に指定された。

●広瀬家と製茶
幕末の1850(嘉永3)年、別子銅山では、山内で必要な米を確保するため、上原に中之町池(広瀬公園内の亀池)と高尾池(鶴池)を造って、新田開発を始めた。しかし、扇状地という悪条件と溜池の水不足により、稲作は失敗した。
1874(明治7)年広瀬宰平は、住友家からこの地を譲り受け、上原出張所を設置して茶畑として開墾を始めた。1877(明治10)年には製茶工場を建設し、さらに1882(明治15)年には、滋賀県滋賀郡と京都府宇治郡の茶師5人を雇い入れ、本格的な技術導入を図った。このころには、植え付け面積の累計が53町5反余(約53ha)の規模となっていた。宰平は、製茶を広瀬家の事業とし、殖産興業に尽力しようとしたのである。
宰平の長男満正は、この事業を引き継ぎ、自ら宇治で製茶の実地練習を行い、荒地を開拓して茶畑にするとともに、茶園の修理や茶摘みに附近の住民を雇い、彼らの農業以外の副収入を途に増やした。また、事業の本格化にともない、1884(明治17)年上原出張所と製茶工場を新築し、さらに1887(明治20)年には、久保田にあった広瀬邸を上原に移築した。
こうした実績により、1887(明治20)年に創設された愛媛県茶業組合で、満正は新居・周桑郡組合長となり、東予地域における製茶業の指導的役割を果たすことになった。また、広瀬で生産された茶は、1903(明治36)年大阪で開催された第5回内国勧業博覧会で三等賞、1906(明治36)年神戸で開催された製茶品評会で二等賞を受賞するなど高い評価を受け、外国への輸出も行われた。
その後事業は、大正・昭和と広瀬家歴代に引き継がれ、地場産業として地域の発展に寄与したが、戦後は時代の流れにより、次第に規模が縮小され、1973(昭和48)年広瀬邸の新居浜市への譲渡とともに終了した。
展示されている製茶機械は、広瀬家の製茶工場(現在の高齢者生きがい創造学園の場所にあった)で使われていたものである。広瀬家の製茶事業終了後、市内江口町の加藤茶園で使用されていたが、このたび里帰りした。

・愛媛県新居浜市上原2-10-42
公式ホームページ

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