川端龍子旧宅 (89 画像)
日本画の巨匠川端龍子は、明治42年24歳の時、牛込矢来町より入新井新井宿に移ってきた。この頃はまだ作品を認められてはいなかったが、挿絵を描いたり、国民新聞社に勤めたりして生計をたてていた。 大正2年に渡米した際ボストン美術館で日本画に魅せられ、龍子は油絵から日本がへと志向の転向を決意する。翌大正3年には、処女作「観光客」が東京大正博覧会に入選し、日本画家として立つきっかけを掴んだ。その後はつぎつぎと作品が認められ、1920(大正9)年、臼田坂下(現在地)に転入した。当時この界隈は田園地帯で、春には一面に母子草(ごぎょう、おぎょうとも)が咲くことから、龍子は新居を「御形荘(ごぎょうそう)」と名付けた。 1938(昭和13)年には、自らの設計により画室を新築する。大作主義を主張していた龍子の制作に見合う広々とした画室は「爆弾散華(1945)」に描かれた空襲の爆風にも耐え、当時の面影のまま残っている。1966(昭和41)年に龍子が没するまで、多くの作品がこの画室から生み出された。 「画人生涯筆一管 龍子」という句があるように画業に専念する人だったが、唯一の趣味としての建築は、龍子の持ち前の器用さと熱心さを反映して素人の域を脱するものであった。龍子記念館、屋敷内の建築はすべて龍子の意匠に依るものである。

●龍子記念館

・東京都大田区中央4-2-1
公式ホームページ

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