中院 (41 画像)
当山は約1200年前、伝教大師最澄の教えを受けた慈覚大師円仁が創立した。
828(天長5)年比叡山を下りた円仁は、満ち満ちに法華経の講演を開き、829(天長6)年の秋には関東、東北に向けた出発し、妙典の教えを広めようとする。各地の霊場を見るごとに足を留め、一乗妙典(法華経)の教えを説いた。伝教大師最澄の志願により関東に10人の弟子を選び、灌頂を授けて円頓戒を広めようとしたが、そのうちの一人が円仁だった。
830(天長7)年和尚が34歳の時、芳道仙人の古跡であった仙波の霊場(現在の仙波東照宮の地)を天皇に奏上して勅許を得、あらためて一寺を建立して星野山無量寿寺仏地院の勅号を賜わることとした。この星野山無量寿寺仏地院が中院である。円仁は弟子の惟正を仏地院第2世と定め、天台の奥旨(おうし)を広め、春秋6年を経て比叡山に帰り講場を開いた。惟正も師に従い比叡山に帰り、性海を第3世とした。
835(承和2)年第4世円丈となり、5世仁光、6世仁祐、7世承祐、8世承海。941(天慶4)に至り、天慶の乱に遭い寺運は衰え、その後元久の乱で全くの灰燼に帰すことになった。
1296(永仁4)年秋、武蔵国足立郡原市の生まれである尊海僧正は、成田氏の助力により仏地院を再建した。天台の顕教(法華経)、密教(真言秘密)の教えを広め、関東天台の教寺580余ヶ寺すべて仙波の仏地院に付属し、法灯盛んにして法輪の余慶は遂に天朝に達し、関東天台の本山の勅許を得た。尊海和尚は後に仏蔵院(北院・現在の喜多院)、多聞院(南院)を建立する。
蓮長(のちの日蓮上人)は、1242(仁治3)年21歳の時、鎌倉の学問所にて尊海の法華経の講義を受け、法華経の真髄を極めるため比叡山に登ることを決意する。尊海和尚の導きにより10有余年学を修めた。1253(建長5)年4月28日、上る太陽を拝し、「南無妙法蓮華経」とお題目を唱え、名前を「日蓮」と改め日蓮宗を開宗した。その後、日蓮上人は当山において、尊海和尚より恵心流の伝法灌頂を受けた。
人皇106代後奈良院の時、1537(天文6)年北条氏綱が河越城を攻めた。その際、兵火にかかり当山は灰燼に帰すことになった。
1632(寛永9)年当山28世尊能が中興したが、1638(寛永15)年之川越大火により焼失した。翌年の1639(寛永16)年、現在地(境内地内)に移動した。その後、1733(享保18)年には本堂を再建した。
大正の初め、孝道教団始祖岡野正道大統理は当山にて出家得度。1935(昭和10)年熟益正法の孝道教団を結集した。
1976(昭和51)年宗祖伝教大師出家得度1200年慶讃大法会にあたり、当山の歴史と寺域の整備を賞揚し、天台宗務庁より「天台宗別格本山特別寺」の称号を再び下附された。
1986(昭和61)年秋には、秩父市荒木社寺設計事務所坂本才一郎氏による設計施工の「昭和の文化財釈迦堂」が古い天台様式(比叡山延暦寺西塔の釈迦堂を模す)により建立された。仏舎利納骨の相輪塔も建立された。本尊釈迦如来は高村晴雲師の作である。
2000(平成12)年には、約230年前に建てられた大門を改修し、現在に至る。
境内には、川越城主秋元侯の家老であった太陽寺一族の墓、島崎藤村の義母・加藤みきの墓などがある。
太陽寺一族の墓は、山門を入ってすぐ左側にある3基の墓で、川越の地誌「多濃武(たのび)の雁(かり)」を著した太陽寺盛胤の祖父盛昌・父盛方及び妻のものである。
また、加藤みきは、1863(文久3)年に川越松平藩蔵前目付の次女としてこの地に生まれ、4歳の時に母に伴われて上京し、以後大正12年に再び川越に戻り、昭和10年5月に73歳の生涯を閉じた。墓石に「蓮月不染乃墓」と彫られており、この墓銘は藤村が書いたものである。

・埼玉県川越市小仙波町5-15-1
公式ホームページ

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