永井路子旧宅 (26 画像)
平成15年10月、古河文学館の別館として「永井路子旧宅」が開館。
作家・永井路子への聞き取りを基に店蔵の修復を行い、住居の一部を再現している。永井が住んでいた当時に近い状態に復元した店蔵は、江戸時代末期の建造と言われており、古い商家のおもむきを残している。東日本大震災では大きな被害を受けたが、修復補強工事を行い、平成24年8月に再開館した。

●旧宅保存に感謝して 永井路子(2003年10月)
取りこわし寸前だった永井旧宅の土蔵部分が、市のお力で保存されることになった。私の生涯最大の喜びである。幼時から20余年の思い出の詰まった「懐かしのわが家」には、永井家200年の歴史も刻まれている。
初代永井(本姓桜井)八郎治が近郷の長井戸村から古河のお城下に出てきて、葉茶屋永井屋を開いたのは19世紀初頭と思われる。1837年に67歳で死んだ彼の肖像画が残っている。名もなき町人の肖像画などあるのが不思議なくらいだが、当時江戸から関東一円の町人に広まっていた不二道の信者だった八郎治の死の直後、その信仰を偲んで描かれたものか。ときに天保8年、古河藩主土井利位公は大阪城代、家老鷹見泉石先生が大塩平八郎逮捕に活躍されたときのことである。
農家出の初代八郎治にさほど財力があったとは思われず、建物はおそらく前住者から譲りうけたのだろうが、四代目になって少し改築したらしい。当時は茶のほか陶漆器を扱い、砂糖も売り、質屋も営んでいたというから、ややゆとりが出来たものか。どの程度の改築か、専門の知識がないのでよく解らないのだが、表通りに軒をせり出し、軒先に「永」の瓦を載せたのはこのときではなかったか。この瓦は大久保翠洞先生の後継者で隣家に住む藤本軒洞氏が取りこわしにかかっていた業者から特に譲りうけて保管していてくださった。その御好意によって今回ふたたび軒先を飾ることになったのも有難いことである。
土蔵の青緑色の壁には、子供の頃の記憶がある。もう色も褪め、ところどころ剥げかけていたが、これも四代目の発案とわかった。四代目の三男の三郎(元古河町長)の妻のさとが、今年100歳の長寿を保っているのだが、つい最近、ぽつりと言ったのだ。
「あの壁の色は、お父っつあん(四代目)が決めたのだそうだよ」
緑色はみごとに復元された。四代目が死んだのが1899年。だからこの土蔵はそれからでも100年の命を長らえたのはまちがいない。
土蔵と中の座敷との境目の石の上は、夏は一番涼しく、私はそこに腰を下ろし、本を読みながら店番をしたものだ。その座敷の隅っこに机を置き、勉強したり、小学生全集を読みふけったりもした。そのころ遊びにきてくれた友達の多くが健在で、また思い出をよみがえらせてくれることだろう。
といっても、感傷にばかりふけっているわけではない。ごく平凡な町家だが、こうした建物はむしろ残りにくいのである。名城、名邸は残っても、それらは音もなく消えていく。あえて保存に踏みきってくださった市には感謝するとともに、二百年の歴史を刻んだこの家の声なきメッセージを百年後の古河の方がどう受け取ってくださるかに期待したい。それと共に、せっかく生きのびたこの建物をどう生かしてくださるか。これは現在の古河市の方々にお願いすることで、私も何かのお役に立てば――と思っている。

・茨城県古河市中央町2-6-52
公式ホームページ

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