旧前川邸 (26 画像)
この屋敷は、1863(文久3)年から2年間、新撰組の屯所となり、また新撰組発祥の地ともなった、大変貴重な建物である。一番長く新撰組が住んだ場所で、総坪数が443坪。家は平屋建てで土蔵2棟を別にして建坪が273坪。部屋は12間あり、畳数にして146畳という広い家なので、納戸部屋は日中でも真っ暗であった。
浪士組(後の新撰組)が壬生にやってきたのは、前川荘司の本家(京都六角)の影響が大きかったと考えられる。前川本家は、掛屋として御所や所司代の公金の出納、奉行所の資金運用の仕事など、いろいろな公職を兼ねていたため、奉行所や所司代などと密接なつながりがあった。上洛する浪士組の宿舎を選定するにあたり、市中情勢にも詳しく、役人の信頼も厚かったことから前川本家が、その仕事を任された。前川本家では、壬生の地が、京の町はずれでありながら、二条城に近いという点で、地理的条件にもあったことから、自分の身内である前川荘司の屋敷を提供、浪士組は前川邸を中心に、八木邸、南部邸(現存していない)、新徳寺に分宿した。これが新撰組の出発となった。前川荘司邸では、家族全員が、本家への避難生活を余儀なくされた。
新撰組の屯所となれば、当然勤王方に襲撃される恐れがある。前川邸を手に入れた新撰組は守りを固めるため、屋敷に手を加え城塞化していった。板塀であった屋敷を取り囲む塀は、そのほとんどを土塀に改築、西側だけにあった長屋門の出格子を、監視用に東側にもとりつけた。母屋のほぼ中央にある納戸からは坊城通へ脱出できるよう抜け道も掘られた。池田屋事件ののちには、勤王派の報復に備え、会津藩から借り受けた大砲までも据え付けたという。
屯所へ決めた当初は刺客に踏み込まれたらすぐ逃げ出せるよう、近藤、土方らも隊士たちと雑魚寝であった。土間は天井が高く人を乗せた馬4頭が並んだまま裏庭へ抜けられるほど広く、一隅は炊事場になっていた。雨の日はこの広い土間で剣術の稽古をやり、天気のいい日は土蔵の横に砂山を築き、砲術訓練をやっていた。
池田屋事件の発端となった勤王派の志士・桝屋喜右衛門こと古高俊太郎の取り調べが行われたのは、敷地の東南角に建つ東の蔵、近藤勇が落書きしたと言われる雨戸も残されているが、屋敷のどこで使われていたかは不明。最後の芹沢派・野口健司が切腹したのは、長屋門西の出格子のある部屋であった。副長山南敬助が切腹したのは坊城通りに面する出窓の奥の部屋であったが、山南の切腹を知らされ駆けつけた恋人明里と山南がその格子ごしに別れを惜しんだという出窓は今はもうない。壬生から西本願寺へ屯所を移転する際、迷惑料として、前川家には10両が置かれたという。 隊士たちの日常の生活は規律正しく、起床すると平隊士は布団を畳んで部屋の隅に積みあげて掃除にとりかかり、終わると朝稽古、そして朝食。そのあと勤務割りやこまごまとした注意などがあった。勤務を割り当てられた者はそれぞれ与えられた部署につくが、非番の者は互いに月代を剃り合ったり、碁、将棋を囲むなどわりと自由な時間が持てた。
外出も自由であったから、普段着のまま3、4人気の合った者同士で、寺社巡りや、名所旧跡巡りを楽しみ、若い隊士は日向ぼっこをしながら、子供をからかったりした。沖田総司も近所の子守や子供を集めて、狭い往来で鬼ごっこをしたり、壬生寺の境内を走り回って遊んでいた。
隊士の勤務は市中の巡察、不逞浪士の取り締まりと探索、将軍や幕府要人の外出の際の警固であった。新撰組の巡回区域は京都御所の南、東洞院、西洞院、西御土居、南御土居、北五条、東山限、西寺町鴨川まで、南七条辺り、北四条辺りと広範囲わたっていた。のちに西本願寺本堂の北集会所と呼ばれる建物に移ったのも、西本願寺が新撰組の警備区域に含まれていたからである。 編成は平隊士5人に対し伍長が1人。これが1班に相当し2班で一隊とし、隊長が指揮をとった。したがって12人で一小隊となっており、一番隊長は沖田総司、二番隊長は永倉新八といった具合に、試衛館出身者が重要なポストをしめていた。 隊旗は縦4尺、横3尺の緋羅紗に、新撰組のシンボルである「誠」を白く染め抜いたもので、隊士たちは暇さえあれば前川屋敷の玄関前の広いところに持ち出し、火消しが纏をふるうようにくるくる回していた。

・京都府京都市中京区壬生賀陽御所町49
公式ホームページ

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