金戒光明寺 (63 画像)
紫雲山と号する浄土宗の大本山で、通称黒谷の名で親しまれている。
寺伝によれば、1175(承安5)年、法然上人が浄土宗の確立のため、比叡山西塔の黒谷にならって、この地に庵を結んだのが当寺の起こりと伝えられている。以後、浄土教の念仏道場として栄え、後光厳天皇より「金戒」の二字を賜わり、金戒光明寺と呼ばれるにいたった。また、1428(正長元)年、後小松天皇より、上人が初めて浄土教の真実義を広めた由緒により「浄土真宗最初門」の勅願を賜わった。
御影堂脇壇には、京都七観音・洛陽三十三観音の一つ、吉田寺の旧本尊と伝えられる千手観音立像を安置している。また、御廟には上人の分骨を納め、廟前には熊谷蓮生坊(直実)と平敦盛の供養塔二基が建てられている。
寺宝としては、山越阿弥陀図・地獄極楽図等の屏風や法然上人直筆の一枚起請文など数多くの文化財を蔵し、墓地には国学者山崎闇斎、茶人藤村庸軒、箏曲開祖八橋検校などの墓がある。

●新撰組発祥の地
幕末の京都は暗殺や強奪が日常化し、手のつけようのない状態になっていた。1862(文久2)年に徳川幕府はついに新しい職制を作り京都の治安維持に当たらせることになった。これが京都守護職である。
文久2年閏8月1日、会津藩主松平容保(かたもり)は江戸城へ登城し、14代将軍徳川家茂から京都守護職・正四位下に任ぜられた。役料5万石・金3万両を与えられた。会津藩は京都守護職に任命されるにあたり幾度か固辞をしたが、藩祖保科正之(3代将軍家光の異母弟)の「家訓(かきん)」に順じて容保が決意したものである。守護職を拝命するにあたっては、家老の西郷頼母・田中土佐は、「薪を背負って火を防ぐようなもの」と反対するが容保の意は変わらず家臣も「君臣唯京師の地を以て死所となすべきなり」と肩を合わせて泣き崩れたという。これにより君臣一丸となり、会津藩松平容保は家臣1千名を率い文久2年12月24日午前9時頃京都三条大橋に到着、京都所司代・京都町奉行所の出迎えを受け、本陣となった黒谷金戒光明寺に至るまでの間、威風堂々とした会津正規兵の行軍が一里余りも続いた。この間、京の町衆も両側に人垣を作り大歓迎するのであった。
ではなぜ、黒谷金戒光明寺が本陣に選ばれたのであろうか。その理由として、次の3点があげられる。

一、城構えである。
徳川家康は幕府を盤石なものにする為に特に京都には力を注いだ、直轄地として二条城を作り所司代を置き、何かある時には軍隊が配置できるように黒谷と知恩院をそれとわからないように城構えとしているのである。黒谷に大軍が一度に入ってこられないように南には小門しかなく、西側には立派な高麗門が城門のように建てられた。小高い岡になっている黒谷は自然の要塞になっており、特に西からやってくる敵に対しては大山崎(天王山)、淀川のあたりまで見渡せる。因みに山内の西翁院にある淀看(よどみ)の茶席(重文)は、茶席より淀川の帆船を見ることが出来たのでこの名が付けられた。また、黒谷古地図によると浪華城遥矚(ようしょく)とあり大坂城まで見えたという。

二、要所に近い。
御所まで約2㎞、粟田口(三条大橋東)東海道の発着点までは1.5㎞のくだり、馬で走れば約5分、人でも急げば15分で到着できる要衝の地であった。

三、1000名の軍隊が駐屯できる。
約4万坪の大きな寺域により1000名の軍隊が駐屯できた。
本陣といっても戦国時代の野戦とは違い野宿ではなくきちんとした宿舎が必要であった。黒谷には大小52の宿坊があり駐屯の為に大方丈及び宿坊25ヶ寺を寄宿のため明け渡したという文書が残されている。
以上が選ばれた根源ではないかと思われる。

新撰組と会津藩の関係は、幕府が文久二年将軍上洛警備のため浪士組を結成したことに始まる。
文久3年2月8日江戸小石川伝通院に集合した240余名の浪士組は中山道を通り、京都へ出発した。同23日京都の壬生へ到着、生麦事件発生により清河八郎他200余名は江戸へ帰ることとなり、清河と意見を異にした近藤勇・土方らは、水戸浪士芹沢鴨等とともに京都残留を希望し、3月10日老中板倉勝静は京都守護職松平容保に浪士差配を命じ、近藤・芹沢らは京都残留の嘆願書を守護職に提出、同12日京都守護職御預かりとなった。翌13日に浪士組の清河等は江戸へ帰った。同16日には近藤・芹沢等は黒谷で京都守護職松平容保に拝謁がかなった。八月十八日の政変(七卿落ち)の日、武家伝奏より「新撰組」の命名とともに市中取締の命を受け、都大路を縦横無尽に走り廻り治安は目立って回復した。新撰組の壬生の屯所と黒谷本陣との間では報告・伝達が毎日のように行われていた。
このような時代背景で黒谷を通じ会津藩・新撰組の関係が成り立ったのである。現在の黒谷金戒光明寺は、昭和9年に御影堂・大方丈が火災により焼失してしまったが、その他の建物は往時のままである。山上墓地北東には約300坪の敷地に「会津藩殉難者墓地」が有り、文久2年~慶応3年の5年間に亡くなられた237霊と鳥羽伏見の戦いの戦死者115霊を祀る慰霊碑(明治40年3月建立)がある。墓地には武士のみではなく、使役で仕えたと思われる苗字のない者も、婦人も同様に祀られている。禁門の変(蛤御門の戦い)の戦死者は、一段積み上げられた台の上に3カ所に分けられ22霊祀られている。会津松平家が神道であった関係で七割ほどの人々が神霊として葬られている。
また、会津墓地西側の西雲院庫裡前には「侠客 会津小鉄」の墓がある。会津小鉄は本名上阪(こうさか)仙吉といい、会津藩松平容保が京都守護職在職中は表の家業は口入れ屋として、裏は、新撰組の密偵として大活躍をした。しかしながら、会津藩が鳥羽伏見の戦いで賊軍の汚名を着せられ戦死者の遺体が鳥羽伏見の路上に放置されていたのを子分200余名を動員し、迫害も恐れず収容し近くの寺で荼毘に付し回向供養したという。以後も、小鉄は容保公の恩義に報いんが為に黒谷会津墓地を西雲院住職とともに死守し、清掃・整備の奉仕を続けたという逸話が残っている。現在西雲院では、6月の第2日曜日に会津藩殉難者追悼法要を会津松平家第14代当主松平保久(もりひさ)氏列席のもと京都会津会主催で盛大に勤められている。

・京都府京都市左京区黒谷町121
公式ホームページ

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