箱根宮ノ下御用邸(菊華荘) (112 画像)
箱根七湯のひとつ、宮ノ下温泉は、明治期以降、外国人や上流階級の日本人が集まる避暑地として脚光を浴びた。ブームの端緒となったのは、外国人専用のリゾートホテル「富士屋ホテル」の開業だった。その敷地内には今なお、明治期の宿泊棟が立ち並び、古き良き時代の面影を留めている。
そこから道を一本隔てた場所に立つ富士屋ホテルの別館「菊華荘」も明治時代の建物だが、こちらは皇室の御用邸、正確には明治天皇の第八皇女富美宮允子(ふみのみやのぶこ)内親王のための御用邸として建てられたものだった。箱根には菊華荘が建てられる前に、箱根離宮(今の恩賜公園)という皇室の建物があったが、避暑を目的として建てられた建物は菊華荘が初めてである。数ある皇室の御用邸の中では、規模は一番小さい1682坪だが、葉山の御用邸の翌年に建てられた日本で6番目の皇室の別荘である。
1872(明治5)年には昭憲皇太后が、翌明治6年には明治天皇と昭憲皇太后が訪れたように、皇室も早くから宮ノ下を避暑保養の場として注目していたものである。
この宮ノ下御用邸は、明治28年8月に竣工した。基本設計は宮内省内匠寮の土木課長木古清敬(きよよし)らが担当し、竣工は直営で行われている。着工から半年で御用邸は完成したが、工事の際には地元の村民250人が動員されたという。敷地内に建てられたのは、建坪約226.5坪の主棟以下、門番所や物置・車庫場、四阿(あずまや)の附属施設などである。このうち、物置・車庫場、四阿は現存しない。
竣工当時、まだ4歳だった允子内親王は、翌年から毎年のようにこの御用邸を訪れた。その多くは、妹の聡子内親王を伴ってのことだったという。最後の滞在となったのは1913(大正2)年で、允子内親王はこの時すでに朝香宮鳩彦(あさかのみややすひこ)王の妃となっていた。翌大正3年からは、代わって皇太子裕仁親王(昭和天皇)が避暑に訪れ、大正11年頃まで、ほぼ毎年静養に利用している。
1933(昭和8)年、允子妃が42歳の若さで亡くなると、宮ノ下御用邸は廃止が決定する。翌昭和9年には高松宮家の別邸となり、さらに昭和21年に同家から現在の所有者である富士屋ホテルに譲渡され、菊華荘と名づけられて宿泊施設となった。戦後の一時期は、進駐軍の軍人やその家族に日本の伝統的家屋や庭園、風習を紹介するため、ここで茶会を催したこともあったという。菊華荘は現在も3室の客室を有し、また会席料理の食事処として営業している。
創建から約110年、その間建物は幾度となく増改築を繰り返してきた。明治期の大規模な増築にはじまり、関東大震災で被った甚大な損傷の復旧工事、そして昭和の大改築などである。だが、御用邸内で最も重要な場所であった御座所部分は、創建当初とほぼ変わらぬ姿を今に留めている。
御座所は、雁行形に連なった主棟の最奥、北西端に位置する。御座所は菊華荘の中心であり柱は全て木曽檜を使用している。12畳が2室と、10畳、8畳合わせて4室が田の字形となった、ほぼ正方形の部屋で、回りには入側や広縁が巡らされている。このうち、床の間を設けた12畳の部屋が允子内親王の居間で、もう一方の12畳が寝室であった。残りの2室は、お付きの人の控室や寝室として使われたものという。現在は撤去されているが、相互の間仕切りは襖建てとなっていた。
允子内親王の居間だった菊の間は、のちに昭和天皇の幼少時代の執務室(勉強部屋)として使われ、桐の間は寝室として使われていた。現在も四方の柱には当時の「かや」をつった紐がそのまま残されている。
その前に広がる庭園も、御座所同様、当時の姿をよく残している。子規土の上り斜面を巧みに利用して苑路を開き、その下に心字池を築いた回遊式庭園である。かつてこの庭の一画には土俵が設けられ、御前相撲が行われたこともあったという。
また、ばらの間と呼ばれている部屋は天皇家の食事部屋であり、当初床は板張りで椅子、テーブルであったようである。

・神奈川県足柄下郡箱根町宮ノ下359
公式ホームページ

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