建仁寺 (91 画像)
建仁寺は1202(建仁2)年将軍源頼家が寺域を寄進し栄西禅師を開山として宋国百丈山を模して建立された。元号を寺号とし、山号を東山(とうざん)と称す。
創建時は真言・止観の二院を構え天台・密教・禅の三宗兼学の道場として当時の情勢に対応していた。
その後、寛元・康元年間の火災等で境内は荒廃するも、1258(正嘉元)年東福寺開山円爾弁円(えんにべんえん)が当山に入寺し境内を復興、禅も盛んとなった。
1259(正元元)年宋の禅僧、建長寺開山蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)が入寺してからは禅の作法、規矩(禅院の規則)が厳格に行われ純粋に禅の道場となった。
やがて室町幕府により中国の制度にならった京都五山が制定され、その第三位として厚い保護を受け大いに栄えるが、戦乱と幕府の衰退により再び荒廃する。
ようやく天正年間(1573~1592)に安国寺恵瓊(えけい)が方丈や仏殿を移築しその復興が始まり、徳川幕府の保護のもと堂塔が再建修築され制度や学問が整備される。
明治に入り政府の宗教政策等により臨済宗建仁寺派としての分派独立、建仁寺はその大本山となる。
また廃仏毀釈、神仏分離の法難により塔頭の統廃合が行われ、余った土地を政府に上納、境内が半分近く縮小され現在に至る。

●開山 栄西禅師
開山の栄西という名の読み方は、寺伝では「ようさい」というが、一般には「えいさい」と読まれている。字は明庵(みんなん)、号は千光葉上(せんこうようじょう)。栄西禅師は1141(永治元)年、備中(岡山県)の吉備津宮の社家、賀陽(かや)氏の子として生まれた。14歳で落髪、比叡山で天台密教を修め、その後2度の入宋を果たし、日本に禅を伝えた。また、中国から茶種を持ち帰って、日本で栽培することを奨励し、喫茶の法を普及した「茶祖」としても知られている。

・京都府京都市東山区大和大路四条下る四丁目小松町584
公式ホームページ

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