鎌倉宮 (50 画像)
護良親王(もりながしんのう)は1308(延慶元)年に後醍醐天皇の皇子として誕生した。
6歳の時に京都の三千院に入るが、11歳で比叡山延暦寺に入室し、尊雲法親王(そんうんほっしんのう)と呼ばれ、天台座主(ざす)となる。
当時、鎌倉幕府の専横な政治に、父帝の後醍醐天皇は国家の荒廃を憂い、親王と共に1331(元弘元)年6月、比叡山にて討幕の挙兵をする手筈であった。
しかし、この計画は幕府の知るところとなり天皇は捕らえられ、隠岐に配流となる。
親王は還俗して、名を護良と改め、天皇の代わりとなって楠木正成らと、幾多の苦戦にも屈せず機知を持った戦で大群を吉野城や千早城に引きつけた。
この間にも親王の討幕を促した令旨に各地の武士が次々と挙兵し、中でも足利尊氏、赤松則村らが六波羅探題を落とし、また新田義貞が鎌倉に攻め込み、鎌倉幕府は北条一族と共に滅びる。
後醍醐天皇は京都に還御(かんぎょ)され、護良親王はこの功により兵部卿・征夷大将軍となる(建武の新政)。
しかし尊氏は征夷大将軍を欲し、諸国の武士へ自らが武家の棟梁であることを誇示した為、護良親王は尊氏による幕府擁立を危惧し、兵を集める。
ところが、逆に尊氏の奸策に遭い無実の罪を着せられ捕らえられ、1334(建武元)年の11月15日、鎌倉二階堂の東光寺の土牢(現在の社殿の後ろ手に残る)に幽閉される。
1335(建武2)年7月23日 残党を集め鎌倉に攻め入った北条時行の軍に破れた(中先代の乱)尊氏の弟、足利直義(ただよし)は逃れる際に、護良親王を恐れる余り、家臣の淵辺義博へ護良親王暗殺を命じた。
義博の凶刃に対して、護良親王は9ヶ月をも幽閉された御身では戦う事もできず、御年わずか28歳という若さでその苦闘の生涯を薨じた。
明治2年2月、明治天皇は建武中興に尽くされ、非業の最期を遂げられた護良親王に対して、遥かに想いを馳せ、親王の遺志を高く称え、永久に伝えることを強く望んた。
親王終焉の地、東光寺跡に神社造営のご勅命を発せられて、御自ら宮号を「鎌倉宮」と名づけた。
なお、明治6年4月16日、明治天皇は初めて鎌倉宮に行幸した。休憩した行在所は現在、宝物殿・儀式殿となっている。
10月には境内で薪能が催される。

・神奈川県鎌倉市二階堂154
公式ホームページ

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