仁風閣 (88 画像)
鳥取氏は、鳥取藩主池田家の居城であった久松山(263m)を扇の要として発展した都市で、この城跡に建っている洋風建築が国の重要文化財仁風閣である。
仁風閣がこの位置に建てられたのは、明治40年5月のことで、鳥取池田家の第14代当主池田仲博侯爵が、宮内省匠頭であった片山東熊工学博士に設計を依頼し、工部大学校で片山の後輩にあたる鳥取市出身の橋本平蔵工学士が監督している。
片山は、明治洋風建築最高の傑作である赤坂離宮をはじめ、京都国立博物館など、数多くの有名建築を設計し、当時の宮廷建築の第一人者といわれた人である。
仁風閣は、フレンチ・ルネッサンス様式を基調とした白亜の木造瓦葺2階建で、バロック風な軒飾りがほどこしてあり、正面右側には、らせん階段のための角尖型の塔を突出させて、この建築の特徴を打ち出している。
また、室内マントルピース(暖炉飾り)のための6本のレンガ煙突は、瓦屋根に言い知れぬ変化をもたせて、当時の建築様式を裏付けており、背面は、1・2階とも吹き放しのベランダを設けて、ルネッサンス様式特有の品格を表現している。
ちなみに、仁風閣の建築は明治39年9月に着工して、わずか8ヶ月で完成し、建築費は約4万4000円であったと記録されている。
当時、市役所の年間予算額は5万円であった。明治40年、完成と同時に仁風閣は、時の皇太子(のちの大正天皇)の山陰地方行啓の宿舎として使用された。各室が、御座所・謁見所などの名称で呼ばれているのはそのためである。
仁風閣の名は、この時、随行した海軍大将東郷平八郎の命名で、今もその直筆が2階ホールに掲げられている。
また、仁風閣には、この時県下ではじめて電灯が灯され、室内のシャンデリアと、夜空を彩ったイルミネーションは、明治文明開化の到来を華々しく謳いあげた。
大正年間に入って、この建物は市の公会堂、県の迎賓館などに使用されたが、昭和18年の鳥取震災の際、屋上に突出した煙突が折損落下し、スレート屋根に葺き替えられた。
昭和24年から47年までの約24年間は県立科学博物館として使用されたが、この間、鳥取文化財協会を中心として熱心な仁風閣保護運動が絶え間なく続けられ、昭和48年春に県立博物館の新築に伴い県から譲渡を受けた鳥取市は、同年6月に重要文化財の指定を受け、昭和49年から3年間、約2億円で修理復元を行い、昭和51年、菊かおる文化の日(11月3日)から公開した。 館内1階では鳥取池田家の歴史をパネルで紹介するとともに、池田家ゆかりの品々などを展示している。
なお、2階ベランダから眼下に見える庭園は、宝隆院庭園といって鳥取藩12代藩主(池田慶徳)が、若くして未亡人となった11代藩主(池田慶栄)夫人宝隆院を慰めるために造った池泉回遊式庭園である。

・鳥取県鳥取市東町2-121
公式ホームページ

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