林芙美子記念館 (104 画像)
この建物は「放浪記」「浮雲」などの代表作で知られる作家・林芙美子が1941(昭和16)年8月から1951(昭和26)年6月28日にその生涯を閉じるまで住んでいた家である。
1922(大正11)年に上京して以来、多くの苦労をしてきた芙美子は、1930(昭和5)年に落合の地に移り住み、1939(昭和14)年12月にはこの土地を購入し、新居を建設しはじめた。
新居建設当時、建坪の制限があったため、芙美子名義の生活棟と、画家であった夫、緑敏名義の仕事場の棟をそれぞれ建て、その後すぐにつなぎ合わせた。
芙美子は新居の建設のため、建築について勉強をし、設計者や大工を連れて京都の民家を見学に行ったり、材木を見に行くなど、その思い入れは格別であった。このため、山口文象設計によるこの家は、数寄屋造りのこまやかさが感じられる京風の特色と、芙美子らしい民家風のおおらかさをあわせもち、落ち着きのある住まいになっている。芙美子は客間よりも茶の間や風呂や厠や台所に十二分に金をかけるように考え、そのこだわりはこの家のあちこちに見ることができる。

●家をつくるにあたって 林芙美子
私は十年前に現在の場所に家を建てた。
私の生涯で家を建てるなぞとは考えもみなかったのだけれども、八年間住み慣れていた借家を、どうしても引っ越さなければならなくなり、私はひまにまかせて、借家をみつけて歩いた。まづ、下町の谷中あたりに住みたいと思ひ、このあたりを物色してまはったが、思はしい、家もなく、考へてみると住みなれた、現在の下落合は去りがたい気がして、このあたりに敷地でもあれば小さな家を建てるのもいゝなと考へ始めた。幸ひ、現在の場所を、古屋芳雄さんのおばあさまの紹介で三百坪の地所を求める事ができたが、家を建てる金をつくる事がむづかしく、家を追いたてられていながら、ぐつぐつに一年は過ぎてしまったが、その間に、私は、まづ、家を建てるについての参考書を二百冊近く求めて、およその見当をつけるようになり、材木や瓦や、大工に就いての知識を得た。
大工は一等のひとを選びたいと思った。
まづ、私は自分の家の設計図をつくり、建築家の山口文象氏に敷地のエレヴエションを見て貰って、一年あまり、設計図に就いてはねるだけねって貰った。東西南北風の吹き抜ける家と云ふのが私の家に対する最も重要な信念であった。客間には金をかけない事と、茶の間と風呂と厠と台所には、十二分に金をかける事と云ふのが、私の考へであった。
それにしても、家を建てる金が始めから用意されていたのではないので、かなり、あぶない橋を渡るやうなものだったが、生涯を住む家となれば、何よりも、愛らしい美しい家を造りたいと思った。まづ、参考書によって得た智識で、私はいゝ大工を探しあてたいと思ひ、紹介される大工の作品を何ヶ月か私は見てまはった。
・東京都新宿区中井2-20-1
公式ホームページ

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