小林一茶旧宅 (22 画像)
小林一茶は、江戸時代を代表する俳人で、やさしい俳句と逆境の生涯をおくった人として知られている。
一茶は1763(宝暦13)年5月5日、北国街道柏原宿(現信濃町)に生まれ、本名を弥太郎といった。3歳で生母、14で祖母をなくし、15歳で江戸に奉公に出された。苦しい奉公生活の中で俳句を学び、30歳から6年余にわたり、俳諧修行のために関西・四国・九州を廻った。この旅でようやく俳人として認められるようになった。
39歳で父がなくなると、継母・弟と遺産相続をめぐって争ったが、この間、江戸とふるさとを何度も行き来して北信濃に多くの門人をつくった。また、江戸の夏目成美(せいび)に師事し、「一茶調」といわれる親近感あふれる数々の俳句を生み出し、房総地方などを巡回する漂泊の生活を続けた。
50歳で帰郷した一茶は、父の遺言により家屋敷や田畑を弟とわけた。屋敷の北半分が一茶、南側が弟弥兵衛のものとなり、間口9間の家を仕切って暮らした。ほかに、一茶は間口3間半、奥行2間2尺の土蔵を譲り受けた。52歳でようやく結婚し、4人の子どもをもうけたが、いずれも幼くして次々に亡くなり妻にも先立たれた。3度目の結婚の後、一茶はさらに不幸にみまわれた。65歳の夏、宿場の大火で土蔵を残してわが家が類焼、門人宅を転々として療養し、11月8日修理を終えた土蔵に帰宅した。そして1827(文政10)年11月19日、土蔵で65歳の生涯を閉じた。一茶没後、後妻との間に女子が生まれ、一茶位牌堂を建立するなど、一茶の継承のつとめ、一茶家を今に伝えている。晩年の一茶は、北信濃で門人の指導にあたりながら、2万句にもおよぶ多くの俳句を残した。大火後、弟の屋敷には、間口4間半、奥行4間の小さな町家が再建され、柏原宿のおもかげを見ることができる。
1957(昭和32)年5月8日、弟分の敷地をあわせて国史跡に指定され、一茶が暮らしていた母屋の跡に、29歳の帰郷のときよんだ句碑が建てられた。
土蔵は桁行3間半、梁間2間の切妻造り、茅葺の置き屋根で、内部は土間、北西の隅に仮住まいのための地炉が掘られている。

土蔵住居して
やけ土の ほかりほかりや 蚤さわぐ

●一茶記念館
●俳諧寺(小林一茶の墓)
●小丸山公園
●小林弥兵衛(小林一茶弟)の屋敷

・長野県上水内郡信濃町柏原48
公式ホームページ

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