大慶寺 (30 画像)
1253(慶長5)年、日蓮聖人は京都比叡山遊学の折り当地を訪れ、茶店を営んでいた道円、妙円の両夫婦を説法教化した。その後、夫婦は自宅裏に法華堂を建立して当山の基を開いた。
日蓮聖人は法華経帰依を慶び、御題目の本尊と毘沙門天王を授与し、記念に一本の松を手植えした。この松は「久遠の松」と命名され庭前に今も見事な枝を張っている。円妙山の山号は道円、妙円両夫婦の法号よりとり、法華経流布の大慶にちなんで寺号を大慶寺とした。
時を経て、天文年間に京都より日遵上人が来て、この法華堂で布教し新たに大伽藍を建て中興の祖となった。その後江戸時代に入り、当地は城下町・宿場町として栄えた。田中城主は1633(寛永10)年以降順次任命され、明治元年まで12氏21人の城主が在城した。この中で当寺と最も関係深かったのは10代、11代と城主をつとめた太田摂津守資直、資晴父子である。資直は太田道灌の子孫で、浜松城主から田中城主となって五万石を領した。
1705(宝永2)年1月2日資直逝去の際には当寺へ納牌、菩提寺とした。田中城最後の城主本田氏の頃には家老以下の藩士の大半が当寺の檀家であったので、いつの間にか「さむらい寺」と呼ばれるようになった。
また、1765(明和2)年6月8日田中城主本田正供の姫が大病にかかり、時の住職21代日専上人に祈祷を依頼、駕籠に乗って登城し、二夜三日間祈念の結果平癒した。この功により城主と対等の駕籠に乗ることを許され、以後田中城の祈願寺となった。
また、明和3年11月、本田正供が江戸にて大病にかかり、病気平癒の祈祷を仰せつけられ、三日間祈祷してお札、ご符を献上。明和8年6月、雨請いの祈祷を命じられ、青池の辺にて祈雨の祈祷等の記録が残っている。
1863(文久3)年2月22日14代将軍徳川家茂上京の折、当町旅館にて脚気を患った際、祈祷を命ぜられ、平癒して金2000疋と紋付幕、高張提灯2個を拝領している。
また、相対勧化といって、昔は御領分内において寄付金を一般から集めることは禁止されていたが、当寺は特別に許可され、天明年間、本堂庫裡再建の時何れも許可され、宿内より浄財を集めている。これは城主の特別の計いによるものである。
庫裡は徳川幕府の老中を勤めた田沼意次が相良城主時代に築造した相良城御殿を移築したものである。
山門横の墓地には、城主太田摂津守、田中藩姫君、家老高瀬家、重富家等の墓がある。また、江戸時代、藤枝の文人と言われた大塚亀石、荷渓、翠崖、田中藩漢学者石井縄斎(日知館創立者)、国学者熊澤惟興等の墓がある。
宝物・文化財としては、江戸時代の司馬江漢、与謝蕪村、谷文晁、池大雅等の書画、願満祖師ご尊像、加藤清正旗題目、徳川綱条公書、田中城、田中藩関係古文書等が保管されている。

・静岡県藤枝市藤枝4-2-7
公式ホームページ

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