高野長英隠れ家 (4 画像)
高野長英は1840(文化元)年5月5日、陸奥国水沢(岩手県奥州市水沢区)に生まれる。幼名は悦三郎。叔父高野玄斎の養子となり高野の姓となる。杉田伯元や吉田長淑に入門した後、鳴滝塾でシーボルトに学ぶ。 田原藩家老・渡辺崋山や岸和田藩医・小関三英らと尚歯会を結成。飢餓対策や西洋事情の研究などに奔走する。天保8年、浦賀沖にきた米国モリソン号を幕府が砲撃。長英は「戊述夢物語」を、渡辺崋山は「慎機論」を書き、幕府の怒りに触れ、長英は永牢の刑になり入獄する(蛮社の獄)。入獄6年目、獄舎が火災になり一時釈放されるが、そのまま逃亡。諸国の数多い門人や学者、また宇和島や薩摩藩主などに守られ、信越、東北、江戸、上方、宇和島、鹿児島などを巡り6年間潜行する。 宇和島藩内には嘉永元年4月2日に入り、宇和島横新町の宇和島藩家老・桜田佐渡の別荘に身を隠した。その間に「砲家必読」(全11巻)などを約している。翌年1月、追手から逃れるため宇和島城下を去り、卯之町に住む学友・二宮敬作の自宅裏の離れ2階に潜む。1階部分が失われ、現在のように2階部分のみ現存している。 4月には鹿児島に向かったが安んずることができず、再び宇和島を経由し6月3日卯之町に到着。10日間余滞在する。8月には江戸を経由し、下総に潜伏。翌年の嘉永3年再び江戸に帰り、青山百人町に居を構え、医業を営む。10月30日、捕吏7人に襲われ、自刃する。

・愛媛県西予市宇和町卯之町3-0239
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